バーボンを舐めながら「優しさ」について考える──『タレンタイム〜優しい歌』

折田侑駿

 20歳の頃からお気に入りのバーボン・ウイスキー(半端な社会人である“ハンシャ”の私でも買えるもの)をちびちび舐めながら、「優しさ」について考えている。もうすぐ夏だ。日本で疫禍による騒動がはじまってから早くも4年が過ぎ、いまの東京の街のにぎわいには凄まじいものがある。そこかしこで多様な言語が飛び交い、人々の視線の向かう先はさまざま。自分のペースが早くても遅くても誰かと衝突してしまう。「あ、ごめんなさい」と口にしてみてようやく、そこに他者が存在していることに気がついたりする。「いえ、こちらこそ」と返した相手にとっても同じなのかもしれない。そこで私たちは互いに「優しさ」を持ち寄っている。けれども少しばかり遅い。それでは普段の私は、この「優しさ」というものを持っていないのだろうか。グラスから漂うバニラのような香りを深く吸い込んでは、「そうかもしれない」とため息をつくばかりである。

 これは深夜の私の場合の話だが、今年の夏は多くの映画ファンが「優しさ」について考えさせられることになる。そう、あのヤスミン・アフマド監督の傑作『タレンタイム〜優しい歌』が劇場へと帰ってくるのだ。物語の舞台はマレーシアのとある高校。ここで学生たちの芸能コンテストである「タレンタイム」が開催されることに。このコンテストまでの過程で、ピアノを弾く女学生のムルー(パメラ・チョン)は耳の聞こえないマヘシュ(マヘシュ・ジュガル・キショール)と恋に落ち、二胡を演奏する優等生のカーホウ(ハワード・ホン・カーホウ)は成績優秀で歌もギターも上手い転校生のハフィズ(モハマド・シャフィー・ナスウィップ)に対して複雑な感情を抱くことになる。マレーシアは多民族国家だから、民族や宗教の違いによる不和が生じても仕方ないのかもしれない。が、人々はそれぞれの個人的な葛藤を抱えながらも、「優しさ」でつながっていくのである。

 この原稿に着手するまでに、改めて予告編を観た。たぶんもう10回くらいは観た。そしてそのたびに手首で涙をぬぐった。そうだ。もう夏なのだから、涙をぬぐうロンTの袖はないのだ。いまこの原稿も涙をポタポタこぼしながら書いている。『タレンタイム』のことを考えているいまの私は、たぶん優しい人間だと思う。そして『タレンタイム』を観ているときの私は、間違いなくめちゃくちゃ優しい人間だと思う。『タレンタイム』に触れているときだけは、数滴の悪意さえ染み入る余地がないほど、この心は「優しさ」で満たされている。けれどもこうして深夜にふと、普段の自分がいかに「優しさ」というものを持っていないのかに気づかされてしまう。しみったれた気分でバーボンを舐めるのも悪くない。ちなみにこれは、あの松田優作氏も愛飲していた、らしい。

 正直なところ、他人のことばかり考えていたら自分の生活が立ち行かなくなる。この社会では、少なくとも大都会・東京では、そうだと思う。これは私だけなのだろうか。いや、そんなことはないと思う。ただ呼吸をしているだけで、無自覚な悪意にさらされてしまうことだってある。だからこそ、『タレンタイム』のような映画がこの社会には、この世界には、こんな時代には、無くてはならないのだ。これは「映画とお酒」についての連載なのだけれど、「お酒」のことはほとんど書かなかった。その理由までは記さないでおくが、「映画とお酒」が好きな方ならば分かるだろう。目の前のグラスに入っているものを飲み干したら、ひと眠りして朝を迎えることにしよう。明日こそ、優しい自分に。そもそも飲みながら書いているのだから、これは十分に「映画とお酒の連載」なのだ。

『タレンタイム〜優しい歌』
監督・脚本 / ヤスミン・アフマド
出演 / パメラ・チョン、マヘシュ・ジュガル・キショールほか
公開 / シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開中
© Primeworks Studios Sdn Bhd

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折田侑駿 文筆家

“名画のあとには、うまい酒を”がモットー。好きな監督は増村保造、好きなビールの銘柄はサッポロ(とくに赤星)。

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