ヤスミン・アフマド監督が教えてくれた愛に満ちた世界ー映画『タレンタイム-優しい歌』【根矢涼香のひねくれ徘徊記 第32回】

根矢涼香

 壁に囲まれていると感じる。どこかの偉いとされた誰かが作った見えない壁。古びてひび割れていても尚、人と人とを隔てる事にいそがしい。嫌なニュースが日々飛び込んでくる。怒ることにも不安がることにも疲れてしまって、目の前のことをやらなきゃと思っても、そこに向かうエネルギーすらすり減っている。そういう時の私は大抵、静かな緑の場所をさがして、自分だけに聴こえる大きさで、歌を口ずさむ。決まって同じ歌たちを。

 ヤスミン・アフマド監督の『タレンタイム-優しい歌』。私はこんなにも優しい映画を他に知らない。

 舞台はマレーシア。高校の音楽コンクール“タレンタイム”への出場にむけた生徒たちと周囲の人々の、恋と友情、それぞれの葛藤、多文化共生の理想と現実を、愛とユーモアたっぷりに描いた美しい青春群像劇だ。

『タレンタイム〜優しい歌』©Primeworks Studios Sdn Bhd

 初めてこの映画を観たときに欠かせなかったもの。それはマレーシアに関する知識よりも、ハンカチと水だった。映画館の外に出ると驚くほどに景色が澄んで見えて、そう感じさせる心のスペースを分けて貰ったのだと気がついた。土地の背景に明るくなくても、普遍的な幸せや、境が生む悲しみは、どの国に生まれようと共通している。ヤスミンは離れた場所と時間にいる私たちにも、物語の空気に入り込む余白をくれた。自分の知らない文化圏の人たちを知り、より理解したいと思えるきっかけをくれた。自分の生活に戻っても、耳に残る楽曲たちが、自分の根っこがきれいな水に浸されているような安心をくれた。

 この映画が日本で公開された2009年、彼女は永遠の眠りに就いた。51歳だった。一度嗅いだら忘れることのできないジャスミンの香りのように、彼女が映画に込めた想いは私たちの心に残り続け、繰り返し、そのなつかしさに出会わずにはいられない。

 彼女の没後15年を記念して、2024年7月20日より、東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムほか全国にて、順次アンコール上映が開催される。彼女の長編映画としての遺作である『タレンタイム~優しい歌』と、2004年に制作された『細い目』が特別上映される。喜びも悲しみも、生も死も、善も悪も、彼女は遠く隔てることはしない。異なる者たちが当たり前に存在する、世界そのものを描いている。

 マレー語、タミル語、英語、中国系諸語。1つの会話の中にも各言語の断片が混ざり合う。異なる文化、異なる神、異なる言葉をもつ者同士が長い時間をかけて、現在のマレーシアを形作ってきた。それでも宗教間や国の制度によって起こる問題も依然としてある。たとえ相手のことが好きになれないとしても、憎しみあうことは無い社会を願っていた彼女は、異なる宗教の俳優を姉妹役にしたり、モデルとなった事件の宗教を物語の中で入れ替えたり、あらゆる仕掛けを映画に組み込んだ。リアルとフェイクが重なり合うことでより一層、映るものが生命力を帯びていく。

 人と人は鏡だ。たとえ立場や人物が変わっても、その構造がある限り、同じ悲劇は繰り返されてしまう。「決まり」や「規則」によって守られる秩序もあるが、人々の表現や行動に対して過度に監視、コントロールしようとすることはどうなのだろうという疑問を投げかける。保守的な価値観の批評家から非難をされても、それをエンターテイメントで打ち返してきたヤスミン。上下関係の常識や固定観念を容赦なく砕き、こんな世界があってもいいんじゃない? と民衆に問いかける。彼女の映画の中では、先生はおならも恋もするし、父親は娘たちにのしかかられてふざけ合い、おばあちゃんは下品な言葉にノってくれる。威厳なんてそっちのけだ。異宗教間での恋愛を祝福する人物だって、普通に出てくる。ユーモアをたっぷり込めた映画表現で、言いたいことを言っていくカッコよさ。武器を手に取らない、彼女なりの革命であり戦いだったのだと思う。

 私たちが今「壁」だと感じているものも、昔はもっと目に見えて、動かすことを諦めたくなるほどに分厚かったのだろう。勇気ある先人たちのおかげで、少しずつ削られてきた。ならばこれらを無くそうとする姿勢はずっと持ち続けよう。病や災害、避けられない悲劇も生きていれば起こるけれど、せめて人の手と心で変えられるものはあるはずだ。一人一人の生きてきた身体の中にすでに物語は流れていると彼女は言う。映画の中の彼らの様に、歌と踊り、愛に満ちた物語のある世界を、私たちは選びたい。

根矢涼香
ねやりょうか|俳優
1994年9月5日生まれ、茨城県出身。『タレンタイム』鑑賞時には化粧を落とすことをお勧めするが、涙でぐしゃぐしゃになったメイクで、スクリーンの向こう側のヤスミンを笑わせるのも一手かもしれない。

『タレンタイム〜優しい歌』
監督・脚本 / ヤスミン・アフマド
出演 / パメラ・チョン、マヘシュ・ジュガル・キショールほか
公開 / 2024年7月20日(金)より、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
© Primeworks Studios Sdn Bhd

イラスト・文 / 根矢涼香

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根矢涼香 俳優

1994年9月5日、茨城県東茨城郡茨城町という使命とも呪いとも言える田舎町に生まれる。近作に入江悠監督『シュシュシュの娘』、野本梢監督『愛のくだらない』などがある。石を集めている。

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