人がひとり、絵と向き合うときの気持ちを考えるー映画『魂のまなざし』【根矢涼香のひねくれ徘徊記 第30回】 2024.3.28
アンティ・ヨキネン監督の『魂のまなざし』という映画を観た。
実在したフィンランドの画家ヘレン・シャルフベックの伝記映画だ。3歳のときに事故で左足が不自由になり、11歳で絵の才能を見いだされ、奨学金で憧れのパリに渡った彼女であるが、この映画ではそこからずっと先の53歳から61歳までの出来事にフォーカスを当てている。
『魂のまなざし』©Finland Cinematic
第一次世界大戦、ロシア革命、フィンランドは独立を宣言し、内戦が勃発した激動の時代。1915年、静かな田舎町ヒュヴィンカーで年老いた母との貧しい暮らしを送るヘレン(ラウラ・ビルン)。権威的組織の画壇からは10年近く離れ、世間から忘れられた彼女だったが、情熱は尽きることなく絵を描き続けた。そんな彼女のもとへある画商が訪ねてくる。ヘレンが描きためていた159点の作品を見いだし、大きな個展が開催されることになる。そして19歳年下の青年エイナル・ロイター(ヨハンネス・ポロパイネン)と出会い、彼女の人生は動き出そうとしていた。
「あなたは女性作家らしくない絵を描きますが……」映画の冒頭はヘレンへのインタビューから始まる。誰かが決めた勝手な価値観には目もくれず、貧困や戦争、市井の人々のささやかな日常を、一人の画家として彼女はただ描く。母親は兄ばかり優遇し、絵が金になると分かったとたんに稼ぎを兄に渡そうとしたり、黙って盗もうとさえする。社会だけでなく家の中でも、女性が表現して地位を確立しようとすることへの風当たりは厳しい。彼女の心が弱った時、そっと隣に居てくれるヴェスター(クリスタ・コソネン)という女友達がいることが、せめてもの救いだ。歴史の中の勇敢な女たちはきっとこうして背中を支え合って来たのだろう。自然豊かな北欧の美しい風景と家事労働の日々。ろうそくの灯が照らす石造りの部屋。画面に映る全てが、ヘレンの描く絵画そのもののように美しい。エイナルと外で絵を描くときの彼女の表情は開放的だが、自画像を描くときのヘレンは苦しみにもがいている。筆を執り、対象と、自分自身を深く見つめ、果てのない対話を繰りひろげる。 彼女の瞳には何が映り、何に近づこうとしていたのか。
『魂のまなざし』©Finland Cinematic
人がひとり、絵と向き合うときの気持ちについて考えたくて、この映画を選んだ。というのも、祖母が描いた油絵が剥がれて、下から別の絵が出てきたのだ。もう彼女はいない。勿体無い気もしたけれど好奇心が勝った。一枚一枚割れた絵をめくり、別のキャンパスに移しながらもう一つの風景を暴くことにした。40年以上経った赤い花の絵。キャンバス代をケチって一度描いた絵の上から新しく描くのは、私もよくやることだ。ジグソーパズルのような骨の折れる作業だったけれど、かき集めた破片を新しい絵として生み直していく作業は、祖母と言葉のない会話をしているようで、私の心を穏やかにしてくれたと思う。この絵を描いたときは、どんな生活だったんだろう。なにに悩んでいたんだろう。少しずつ下の絵が表れる。二本の木、シジミ漁の船、水面、筑波山。ふるさとの涸沼という湖を描いていたようだ。 「絵は花のように色褪せる」というのはゴッホの言葉だったか。一番瑞々しさを放つのは確かに、目の前の光景を残そうとするときの衝動に違いないけれど、絵にすることでその命を永遠に近いものにすることはできる。
ばあちゃんはいつしかほとんど描かなくなってしまった。事故に遭って足を悪くし、外に出掛けなくなった。趣味にお金を使うのはもったいないという考えもあったのかもしれない。小さい時、下絵で終わっていたキャンバスの上に絵を描かせてもらったことがある。幼い手には重く、甘ったるい油の匂い。乾いた筆跡が作った山々を指でなぞる。思えばあれが最初で最後の一緒に何かを描いた時間だった。
帰省する度、東京にいても変わりきらない自分の地を慰めるように私は絵を描いた。背後に立ってじっと見ている祖母に、「一緒に描こうよ」と誘っても、水彩セットを渡してみても、頑なに「ばあちゃんはいいよ」と言った。そんなことよりも私の不安定な仕事や稼ぎについて心配していた。結局彼女を安心させられないままだったと思う。お葬式では、昔は時間さえあれば一人で遠くまで出かけていたのだと聞いた。軽トラに画材を積んで絵を描きに行っていたんだ! と思った。7人姉弟の長女として生まれ、妹たちの子守をして育った働き者の女性が、田舎から出ることはなく、それでもロマンと筆をもって、一人で外の景色と向き合っていたのだと思うと、胸が熱くなる。よく使い込まれていた絵画入門書や名画家のスクラップブックを見つけ、それらを教材とするように読み漁る。
いつか、彼女が立った場所を探しに行って、描いてみたい。祖母の血も流れている自分の目を使って。
『魂のまなざし』DVD
販売元 : オンリー・ハーツ
©Finland Cinematic
根矢涼香
ねやりょうか|俳優
1994年生まれ。1994年生まれ。祖母と同じように軽トラを運転したくてマニュアル免許を取ったはいいが、車に乗る際は全てオートマなので全く活用していない。
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DOKUSOマガジン3月号(vol.30)、3月5日発行!表紙・巻頭は岡田将生、センターインタビューは濱口竜介!
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1994年9月5日、茨城県東茨城郡茨城町という使命とも呪いとも言える田舎町に生まれる。近作に入江悠監督『シュシュシュの娘』、野本梢監督『愛のくだらない』などがある。石を集めている。