どこかに行きたいけど行けない時に観る映画 ー 『わたしに会うまでの1600キロ』【根矢涼香のひねくれ徘徊記 第13回】 2022.10.20
やらなければならないことが山積みの時、それでもおなかは減るもので、慌てて味噌汁をすすったせいで舌を火傷してご飯の味がしなくなってしまう。自業自得なのだけれど、人生のうちに何度繰り返したか分からない悲しきルーティンにひとりで憤っている様は見事に滑稽で、カメラで録画しておけばよかったと思う。何か一つうまくいかない時は、神様のいやがらせかしらと思えてくるほど立て続けに転び続けてしまう。生き霊でも憑いてるんじゃ?と友人に笑って心配され、辛うじて塩風呂に入ってみた。汗をかいたので少しだけサッパリした。
スマホも財布も家に置いて、私が突然散歩に出かけるときは大抵明るい理由ではない。がんじがらめになって、何が分からなくなっているのかすら分からない。とにかく同じ場所で足踏みし続けることは不健康だしゴールは見えないので、身一つで、何も考えずに歩いてみる。自転車を自由に漕ぐのもいい。変わる景色の中を進んでいると、頭と心をびっしりと埋め尽くしていた鎧が一つずつはがれていって、やがて何に行き詰まっていたのかも忘れてしまう。
温泉や知らない土地への旅に気軽に行ければ最高なのだが、そうはいかない場合が多い。圧倒的に旅不足な今、私の目を惹きつけたのは1本の映画に映るカリフォルニアの雄大な山や包み込むような湖の光景だった。
©2022 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
女優のリース・ウィザースプーンが製作・主演を務めた、ジャン=マルク・バレ監督『わたしに会うまでの1600キロ』(原題“Wild”)。アメリカにおける三大長距離自然歩道のひとつであるPCT(パシフィック・クレスト・トレイル)の砂漠と森を、人生の再出発のために南から北へ1600キロ歩き続けて踏破した、実在の女性シェリル・ストレイドの自叙伝を映画化したものだ。
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主人公シェリルは、女手一つで育ててくれた最愛の母・ボビーの死のショックを埋めるように、ヘロインに溺れ、心優しかった夫を裏切ってしまう。結婚生活を破綻させてしまい自分自身に嫌気がさした彼女は、このままでは残りの人生までも台無しにしてしまうと、かつて母が誇りに思ってくれていた自分を取り戻すべく、1600キロの旅に出た。
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映画の冒頭は、険しくむき出しな岩山の上に座るシェリルが、はがれかけた足の爪に苦悶しているところで、靴が崖下へと転げ落ちてしまい“Fuck you Bitch!”と叫んでいるシーンから始まる。ヤッホー!と声のコダマを楽しむ爽やか登山とは程遠い。どこかで役に立つかもと、物を詰め込みすぎたリュックの重さで立ち上がれない彼女を見ていて、自分も同じことをしそうだと冷や汗をかいて見守っていた。
自然の中でも都会の中でも、世界に厳しさがあることに変わりはない。自分の不注意でガスが使えず冷たい粥をすすり、その食料さえも尽きる絶望。旅先での人や動物との出会いも警戒が必要だ。極寒の雪山や酷暑の砂漠は容赦なく体力を奪う。度々命の危険にさらされながらも、ありのままの自然の美しさに息を飲み、シェリルは過去と、そして自身と向き合っていく。
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記憶が殴りかかるときはいつも突然だ。目の前を生きている時は、瞬間にただ身を任せている。時間が経ってから初めて、その時が幸せだったのか最悪だったのか分かるようになる。数々の取り返せない後悔が、孤独に目的地へ向かう彼女の頭に、波のように押し寄せてくる。生前の母の言動に苛立って意地悪な言葉をぶつけたこと。あんなにも傷つけてしまった元夫が励ましの手紙をくれること。シェリルの感じる心の痛みが伝播してくる。ローラ・ダンが演じる母親の、苦難の日々を楽しく生きる工夫をする明るい笑顔に、胸が張り裂けそうだった。
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トレイルの各地点に設置されたポストに、シェリルが好きな作家の言葉を記していく場面が好きだった。最後には自分の名前をそっと綴る。誰かの言葉は、自分がその状況に近づいて初めて重さが分かるもので、それまではただの借り物にすぎない。ボロボロの身体を動かしながら、先人や母の残した言葉の意味をかみ砕いていく彼女の姿が、生きている人のありさまだと感じた。
旅も人生も、痛みが伴う。それぞれ擦り傷やかさぶたを作りながら、偶然の出会いを繰り返すうちに思わぬ場所にたどり着く。逞しいと賞賛される人が初めからそうなわけではなく、自分の弱さの山を乗り越えて、心の筋肉をつけていくのだろう。私のちっぽけな徘徊と並べては申し訳ないほどの、一人の女性の大きな冒険にバチンと背中を叩かれた。足元ばかり見つめていたら世界が美しいことに気が付けない。
根矢涼香
ねやりょうか|俳優
1994年生まれ。ずいぶん前だが、自転車で遠くまで来てしまい、自分がどこにいるのか分からず、いい年してコンビニで道を聞いてしまった。恥ずかしい。
『わたしに会うまでの1600キロ』
ディズニープラスの「スター」で配信中
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今回の記事を含む、ミニシアター限定のフリーマガジン「DOKUSOマガジン」10月号についてはこちら。
⇒DOKUSOマガジン10月号(vol.13)、10月6日発行!表紙・巻頭は高杉真宙
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文 / 根矢涼香 撮影 / 西村満 スタイリスト / 山川恵未 ヘアメイク / 木内真奈美(OTIE)
衣装 / ブラウス¥34,100、パンツ¥27,500/ともにFumiku<問い合わせ先>PR.ARTOS/03-6805-0258
1994年9月5日、茨城県東茨城郡茨城町という使命とも呪いとも言える田舎町に生まれる。近作に入江悠監督『シュシュシュの娘』、野本梢監督『愛のくだらない』などがある。石を集めている。