旅する女女映画 - 『チェデン&アップル』『ローマ、愛の部屋』他 2021.4.23
このコーナーでは、映画執筆家の児玉美月が、映画をジェンダー、セクシュアリティ、フェミニズムなどの視点からご紹介していきます。
今回は、女性が主人公のロードムービーを取り上げ、「旅する女女映画」と題してお送りします。
女と女のロードムービーと聞けば、やはりまず開口一番『テルマ&ルイーズ』(1991年)を挙げずにはいられない。テルマとルイーズは結束的な友情の似姿であると同時に、恋人たちの青写真でもあっただろう。兎にも角にもこの女たちは社会との切断線を超えていった。悲劇的な死に涙を誘われるのみならず、その果敢な越境にわたしたちもまた絶叫しなければならない。金字塔となったこの映画は、その後も幾度となく姿を変え形を変え、映画史に生きながらえている。
たとえばフィリピン映画『チェデン&アップル』(2017年)はそのタイトルからも明らかなように、『テルマ&ルイーズ』の直系にあたるだろう。暴力を振るってくる夫を殺してしまったアップルと、殺そうとした矢先に夫が死んでいたチェデン。両作ともに女たちの旅は、凄惨な暴力の末に男を殺してしまうところに端を発する。
それで言えば、黒人のレズビアンであるジェーン、HIVに感染しているロビン、元恋人を殺してしまった妊婦のホリーという3人の女によるロードムービー『ボーイズ・オン・ザ・サイド』(1995年)や、暴力を振るっていた男を愛する女のために殺したレズビアンの女と、その男の妻である女が逃亡する『彼女』(2021年)などもまた、同じくその系譜にある。
アップルは自分の出演した作品を日々テレビで延々と観ており、過去に諦めた役者の夢に取り憑かれている。二十代の若い男に求愛され「年齢は数字でしかない」と説かれたところで、「私の年齢になってから言いなさい」と快活に交わすユーモア豊かな向日性の女だ。一方、忘れられない初恋の女を探しに行くと決めたチェデンもまた、過去に取り憑かれている。チェデンは夫から解放されたと同時に「私はレズビアン」と宣言する誇り高き聡明な女だ。
そんなチェデンの物語が抱える主題は、韓国に暮らす中年の女ユンヒが日本に暮らすかつての恋慕の相手ジュンから手紙を受け取る『ユンヒへ』(2019年)のそれとも重なり合う。年老いたチェデンは美しい記憶と色褪せた写真を頼りに初恋の女を探し求める。チェデンやユンヒが最愛の人と人生を過ごせなかった理由は、第一にそれを良しとしない社会の側にあっただろう。
失われた時間とありえたかもしれない選択の重みがのしかかった彼女たちの追想は、それぞれ北国と南国の地域性を象徴する雪と水のモチーフに包まれながら、なんらかの答えに至る。その瞬間ばかりは筆舌に尽くしがたい。
チェデンとアップルは映画が終幕に近づいた頃、ウェディングドレスを着て走り出す。女ふたりのウェディングドレス姿といえば即座に思い出されるのが『リップヴァンウィンクルの花嫁』(2016年)だが、それは監督の岩井俊二自らが著した同名小説でも示唆されているように、淡いファンタジーのヴェールを纏いながら同性婚の可能性へと開かれているものだった。
おそらく「結婚」なる制度をとことん憎み呪ってさえいたであろうふたりが、何故それを連想させる衣装に身を包むのか。チェデンとアップルのそばを大勢のウェディング姿の女たちが闊歩するが、そこにはタキシード姿の男は一人もいない。記憶違いでなければ店頭に陳列されていたのもウェディングドレスのマネキンだけであって、映画の世界には最初から「花婿」の概念など存在していないようにさえ思えてくる。
御伽噺のお姫様と王子様を模した男女に被せられる「めでたしめでたし」がもはや不吉な呪文にしか聞こえないような時代にあって、ややもすれば文化的反逆と意味づけしたくもなってしまうこの映画の女ふたりによるウェディングドレスには、そんな身振りさえ吹き飛ばしてしまう力が漲っている。
女のロードムービーは単線的にあらず。自ら切り拓いていると信じて進む道程が、実は人工的な構築物であることは往々にしてある。気付き、迂回し、思い直し、疾走し、立ち止まり、また歩む。女のロードムービーは男の介入を免れないことも多い。『ビビアンの旅立ち』(1985年)は、男を含めた三角関係から脱却し、死にも陥らないレズビアン映画を志向して作られた。
1959年のネバダ州、コロンビア大学の英文学の教授であるビビアンは、離婚手続きのために訪れた宿で出会ったケイと恋仲へと発展する。車で崖から下降するのではなく、列車によって水平線がどこまでも伸びていく構図に歓迎された結末は、ふたりの旅路を明るく言祝ぐ。そんな『ビビアンの旅立ち』は、「ハッピーエンド」を持つ先駆的なレズビアン映画としてもよく知られている。
旅先のひとときを一風変わったタッチで描いた映画に、『ローマ、愛の部屋』がある。街頭を戯れながら歩くふたりの若い女を頭上高くからカメラが捉える。それぞれスペインとロシアからローマを訪れたアルバとナターシャはバーで意気投合し、そのままホテルの一室で一夜を過ごすこととなる。
開巻の俯瞰のショットはその部屋からの視点であり、密室空間に幽閉されたカメラがこの物語の語り手である。そこでは彼女たちを外の世界と結びつけるものは、インターネットか電話ほどしかない。ムードを高める艶めかしい音楽を背負いながら、交互に人生を回顧し涙を流してみせるふたりの姿はどこか芝居じみていて、見知らぬ土地は彼女たちを塾れた演者に仕立てあげている。
アルバは自身をレズビアンだと語り、ナターシャは男が好きだと語る。「男性的な行為」を忌避するアルバと、それを求めるナターシャの応戦。束の間の時間にまったく異なった女同士による性愛実験が断続的に繰り返される。この関係は部屋のなかだけにしようと共犯関係を結ぶふたりの睦み合いを追っていると、同性愛関係を閉鎖的な空間に秘匿しようとするアナクロニズムの感が漂いもする。
しかしさらに映画の時間が流れ、湿っぽくほの暗い室内に陽の光が差し込み、画面が目映くなっていくのを見るにつれ、こうも思う。映画は彼女たちの関係を閉じ込めようとしていたのではなく、むしろ外へ解き放とうとしていたのではないか?ついにその部屋を出ていくふたりを、やはり部屋から脱せぬカメラがその場に留まったまま見守っていた。ローマを舞台にした男女のラブロマンスを描く名作映画は数知れないが、そのなかには『ローマ、愛の部屋』のような洗練された審美的な女女のラブロマンスもある。
女の「旅」、それもとくに女と女の「旅」を、「逃避行」や「モラトリアム」などと同義語にしたくない。「旅」は「旅」だ。単なる同語反復がしたい。