『めし』と瓶ビール 折田侑駿の映画とお酒の愉快なカンケイ

折田侑駿

古今東西に存在する映画の多くには、じつにさまざまな「お酒」と「飲んだくれ」が登場します。ときに彼らは愉快なものですが、またときには非常にヤッカイなものでもあります。もっといえば、キケンですらある。それはぼくたちの社会においても同じことだというのは、おそらく誰もが知るところでしょう。

このコーナーでは、「映画」と「お酒」をこよなく愛し、そして憎む(!)文筆家の折田侑駿が、“映画に登場するお酒”、“飲みながら見たくなる映画”、“映画を見たあとに飲みたくなるお酒”──などなど、〈映画とお酒〉の関係に、愛憎の入り混じった態度でキケンをかえりみず、あらゆる角度からの接近を試みます。

映画のおともにお酒が欠かせない方、お酒のアテには映画がマストだという方、ここで一献傾けませんか?

「お客さん、一杯目なんにすんの?」──年季の入った赤提灯が魅惑的な光を放つ居酒屋のカウンター席に、おっかなびっくり腰を下ろしたところ、間髪を入れずにコワモテの大将からこう問われたら、あなたは何と答えるだろう。

「あ、ええと……(まだメニューにすら目を通してないのになあ)」と口ごもりながら、店内一面に貼られたお品書きを見回す方もいるだろうし、「と、と……とりあえず、生で!」と反射的に声を裏返らせる方もいると思う。

そこで出てくる答えは千差万別。とくに初めて訪れる店や、勇気を出して踏み込んだ老舗店などであれば、やはり一杯目のお酒は吟味したいもの。最初から焼酎や日本酒で攻め込みたい方は、それこそ選ぶのに時間がかかることだろう。

しかし、ぼくはどこへ行っても一言目は「瓶ビールをお願いします!」である。毅然と、そして朗らかな調子で。元来、緊張しいで臆病者のぼくだが、入店してから一杯目を頼むこの時点までに失態をおかすことはまずない。

続いてあちらが「銘柄はどうすんのさ? うちはアサヒとサッポロだけだよ」とくれば、0.2秒ほどの刹那、その場における自分のコンディション──喉の渇きぐあい、腹の減りぐあい、精神状態等──を把握し、すぐさま銘柄を決断。

どんな店であれ、どんな大将や女将さんが相手であれ、常連さんから一見さんである若輩者のぼくに対して試すような視線が向けられていようとも、この一連のやり取りだけはスムーズにこなす自信がある。いや、こなさなければならない。なぜなら、瓶ビールを愛しているからである。

──さっそくもホロ酔い気分で、問わず語りの自分語りが長くなってしまったが(反省……)、こう口うるさくなるほどまでに瓶ビールを愛するようになったのには、いくつかの理由がある。そのもっとも大きなものが、成瀬巳喜男監督の『めし』(1951年)の影響だ。

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本作は、林芙美子による未完の小説を映画化したもの。夢の新婚生活なんてどこへやら。大阪と東京を舞台に、早くも倦怠期にある若い一組の夫婦の行く末を見つめた作品である。原節子が演じる妻はあくせくと家事に勤しみ、上原謙が演じる夫はというと、家にいれば口にするのは食事の仕度を求める「めし」の言葉ばかり。たばこ片手に新聞に目をやり、妻の顔なんてろくに見もしない。そんな“前時代的”な夫婦の光景から本作ははじまる。

この上原の演じる夫が、じつにふてぶてしい。同性である自分も、いや、同性だからこそか、見ていてどうにも腹が立ってくる。自分にもそういった性質があるのかもしれないという、“同族嫌悪”的なものかもしれない。

原が演じる妻の、映画の冒頭から張りついていた笑顔がしだいに剥がれ落ちていくさまも、この男の無粋さを反映しているように思う。そう、物語序盤に見せる妻の笑顔は、華やかながらもどうにもつくりものクサいのだ。さしあたり、“造花”とでもいえるものかもしれない。

やがて妻は意を決して実家へと帰京。夫は妻の不在にヤキモキし、これまでの自分の振る舞いを省みることになる。実際にそういった類いの言葉を劇中で口にするわけではないが、彼の苦々しい表情を見ていると、その心中は穏やかでないことが分かるだろう。だが、離れたところにありながらも、互いに意識し合うふたり。根気の入った妻に対し、やがては夫が折れるかたちとなるのだ。

そうして訪れる、ふたりの再会のシーン。微笑を浮かべる夫。ここで、くだんの瓶ビールが登場するのである。彼らは軽食屋のテーブルにつき、ひとまず瓶ビールを注文。いつもは妻に飲食物を供されてばかりだった夫が、ここでは自ら妻のグラスにもビールを注ぐ(泡とビールの比率の美しさにも注目!)。

そうしてふたりともグラスに口をつけるのだが、夫は「うまい」と口にし一息に飲み干し、妻は「苦い……」と口にし、ふたりはこれから先のことを互いに口にし合う。やがて迎える将来は、「うまい」ものかもしれないし、「苦い」ものかもしれない。けれどもそれをふたりでともに味わっていく。ここにぼくは、誰かと人生を歩むことの尊さを垣間見た。「もう飲めない」という妻のビールを、夫が代わりに飲む行為も美しい。妻(他者)に対する夫の、ある種の“思いやり”が感じられる。

個人的に瓶ビールの好ましい点を挙げるならば、ジョッキに注がれた生ビールと違って、気が抜けにくく、温くなりにくい。だから、ゆっくり飲めるという利点があり、肴をじっくり味わえる。ゆったりとした時を過ごすひとり酒であればもちろん、グイッと一息にあおるジョッキよりも、気の赴くままにグラスに注ぎ、好きなペースで愉しむことができるのだ。また、誰かと一緒に飲む場合であれば、“注ぎ合う”という行為によって、時間と空間をより他者と共有することができるだろう。

さらに個人的には瓶ビールを注文することによって、「とりあえず生でいいよね?」という言葉による同調圧力へのアンチテーゼも掲げたいところ(ビールが苦手な人や、できるだけお酒を控えたい人、最初からサワーが飲みたい人だっているはず!)。「乾杯は生でしょ」という決まり文句は、他者を尊重する心が欠如しているとすら思う。これは社会全体で見直していきたいもの。

もちろん、時と場に合わせて瓶ビール以外のものを注文することもある。しかし、あえて瓶ビールを注文し、これらの小噺を披露してみると、それから瓶ビールを好むようになった人もいるようなので嬉しい。“飲みニケーション”なんて言葉はもはや死語に等しいけれど、瓶ビールがコミュニケーションを円滑にしてくれる場合もある。しかし、その逆も然り。アルコール・ハラスメントは言語道断。注ぎ合う量やタイミングは、お互いの調子を見計らおう。『めし』の夫婦のように。それが、思いやりである。

(イラスト:泉晴)

折田侑駿 文筆家

“名画のあとには、うまい酒を”がモットー。好きな監督は増村保造、好きなビールの銘柄はサッポロ(とくに赤星)。

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