本当の人生に向けて“離陸”するー映画『スパニッシュ・アパートメント』【根矢涼香のひねくれ徘徊記 第20回】

根矢涼香

朝早い時間に家を出て、薄明の空の下、現場に向かう。そんな時ふと、思い出される匂いがある。高校時代に行った短期留学のホームステイ先でお弁当として持たせてもらったサンドイッチのもったりとした小麦の匂いが、目の前にあるはずもないのにふっと蘇る。カナダから日本に帰国する日、毎日遊んでいた3歳の女の子・マヤは私が帰ると知って怒ってしまった。「起こしたら大騒ぎするから」とウィンクして私をそっと送り出す母親のエヴァはポーランドから越してきて、女手一つで3人の子供を育て上げたかっこいい女性だった。あなたの夢を応援するね、とハグをして我慢できずに泣いてしまったときの、あたり周辺の空気全部が淡い青色で、吸い込んだまま胸の奥に住みついているのだと思う。あの頃不安でたまらなかった自分が10年後、今こうして映画の傍で日々を過ごせていることを思うと不思議で、これはとっても幸せなことだ。

映画祭や旅行で外国を訪れる機会はあっても、あくまで訪問者としての滞在であり、勉強のためにその土地にしばらく暮らすという体験は、あの時だけだった。見えるもの、聞こえてくるものへのアンテナの張り方がまるっきり違うように思う。叶うことならもう一度、あの留学感覚を味わいたい。そんな欲求を満たしたくて、ある映画に辿り着く。

セドリック・クラビッシュ監督による『スパニッシュ・アパートメント』。

卒業を来年に控えたパリの大学生グザヴィエ(ロマン・デュリス)は、かつては作家に憧れていたが、現実はそうもいかずに行き詰まっていた。就職のために必要なスペイン語を習得するべく、バルセロナへの1年間の留学を決意する。そこで待ち受けていたのは、国籍も性別もバラバラの6人の学生が暮らすアパートでの同居生活だった。さまざまな文化が奇妙に調和するこの混沌とした新生活の中で、グザヴィエは初めて本当の人生に向けて“離陸”する。

本土を飛び立つ前のドタバタや、周囲の人との一時的な別れの不安や寂しさが、リアルかつ軽快なテンポで描かれていて、これから彼の留学に同行する気分になれる。浮かれた緊張感を纏いながらきょろきょろと街を歩いて、道を尋ねるのにも、注文をするのにも、フレーズを確認しながら、一つずつ馴染ませていく。舌に新しい響きは楽しくて、気に入った地名を何度もそらんじるところも共感した。舞台となるアパートには、イタリア、ドイツ、デンマーク、イギリス、スペインからそれぞれに集まった学生たちが、時に意見をぶつけ合いながら暮らしている。そういう同世代の自己主張の場に憧れて、入居を決めるグザヴィエ。20代の若者たちを等身大に演じる俳優陣も見ていて楽しい。私もこんな大学時代を過ごしてみたかった。思い返せばカナダで滞在した家はホストファミリーの他に、スペイン人とアメリカ人の夫婦が暮らしていた。リスニングが苦手だった私も、めくるめく異文化との出会いに心躍り、なんとか会話をしようと前のめりに必死こいていた。映画の人物を眺めるうちに、それぞれの母国語でなまった英語を聴くこともたまらなく好きだということを改めて実感する。

それにしても、留学時は見る夢まで英語だったのに、今じゃ何とか聴きとれるものの、ボキャブラリーの引き出しがうまく開かず、最低限のコミュニケーションがやっとだ。悔しいし、もったいない。再び海外に……は行けないので、ストリートビューでかつて過ごした街を検索して、バーチャル徘徊で今のところは我慢する。見覚えのある通りを歩くあらゆる国の人たちを眺めながら降ってくる記憶は、間違えたバスに乗ってしまって焦りながらも何とか道を尋ねてステイ先に帰れた時の感動や、家での手巻き寿司会に遅刻して5歳の男の子に怒られたこと、通りすがりの人が着ている服を褒めてくれるような気軽かつポジティブな日常の嬉しさ、語学学校で一緒だった韓国の女の子とそれぞれ相手の名前を母国語で書き合って交換した興奮など、英語力は復活しなかったが、その時の気持ちや鼓動は細やかに覚えていた。田舎育ちの10代の自分にはどれも新しくて刺激的な体験だったのだ。

時が経てば体は勝手に成長していくけれど、心が独りでに背を伸ばしてはくれない。さまざまな出会いや別れ、関わりの中で跳ね返しあって、混乱の中でしか獲得できないものもきっとあったと、これまでの人生を振り返る。時に傷つきトラブルに巻き込まれながらも豊かに人生を噛みしめるグザヴィエを見守りながら、自分の人生を積み重ねたい場所は自分で選ぶことができるよなあと考える。とりあえず貯金をして、英語を勉強し直そう。

セドリック・クラビッシュ監督『スパニッシュ・アパートメント』。共用冷蔵庫のごちゃごちゃ具合が映画の登場人物たちを物語るようで好きだった。

根矢涼香
ねやりょうか|俳優
1994年生まれ。今まで訪れた国はカナダ、ハワイ、韓国、香港、ドイツ、オーストリア、タイ。いつか撮影で海外に行くことが夢の一つ。どこに行きたいかな。

文・イラスト / 根矢涼香 撮影 / 西村満 スタイリスト / 山川恵未 ヘアメイク / 木内真奈美(OTIE)

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根矢涼香 俳優

1994年9月5日、茨城県東茨城郡茨城町という使命とも呪いとも言える田舎町に生まれる。近作に入江悠監督『シュシュシュの娘』、野本梢監督『愛のくだらない』などがある。石を集めている。

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